三洋堂について

あなたなら絶対できる店づくり

本稿は故加藤 宏前社長(当時副社長)が1992年11月18日、日本書店大学主催の 第20回書店特訓ゼミナールで行った講演をまとめたものです。

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1.はじめに

ただいまご紹介に預かりました三洋堂書店副社長の加藤宏でございます。私からもこの席に社長が来られなかったことを深くお詫び申し上げます。社長が用意し たレジメがあるのですが、本人がしゃべることを前提に作ってあります。私の方で少しアレンジを加えながら、おおまかに3点ほどにまとめてお話していきたい と思います。

1つは三洋堂書店の簡単な歴史と現状。そしてその中から得た経験的な部分。つまり経験則です。「こうすれば失敗する」ということです。それから、今後どの ように三洋堂書店が動いていくか、どのようにしていけばいいのか、という経験則から導き出された成すべきことについてです。

ちなみに、自分が決めれば取次が変えられるという方、何名くらいお見えでしょうか。ひとりもいらっしゃらない。また、今は本屋をやっているが、雑貨屋にで も文具屋にでも変えられるという決定権を持っていらっしゃる方はお見えですか。何名かいらっしゃいますね。社長の話は経営者層向けになっているのですが、 経営者の方は圧倒的に少数ですので、その代わりに店長さん向けに何をなすべきか、ということをお話させて頂きます。

2.三洋堂書店の歩み

まずは簡単な歴史です。

社長は尋常小学校を卒業してから、満鉄の社員として中国に行きました。10人兄弟の4番目に生まれましたので、口減らしのためだったと思います。満鉄は支度金も出るということですぐに中国に渡りました。

14、15歳の頃ですから、現地へ行ってもまだ使いものにならないので、満鉄は入社して2年か3年間、実務にすぐ使えるようにと集中的に教育をしたそうで す。小学校の頃は本など読んだことがない、というくらい勉強嫌いだったのが、満鉄のおかげで勉強が好きになったそうです。それで休みの時は、結構、近所の 本屋さんに行っていました。
そして、敗戦までそこに残り、その後日本に帰ってきてすぐに本屋を始めました。

杁中で創業

日本に帰ってきて、たまたま、義理の兄に本屋の株を買ってもらいました。相撲界でいう年寄り株みたいなものです。それから本屋を始めました。ちょうど新憲法施行の年だったそうです。

その時は3坪くらいでした。それから5坪になり、10坪になり、15坪になったので、それまで兄と一緒にやってきたのですが、自分の結婚を機に別々の店をやろうということで、杁中に店を出すことになりました。これが私ども三洋堂書店の創業の年で、昭和34年でした。

その時は15坪の店でした。当時、杁中には日本福祉大学という大学があり、そこの学生や先生に売る本というのは、当然、社会主義関係の本でした。青木書店 さんや大月書店さんとか東大出版会さんなどの、今でいうと非常に固い本です。そういう固い本を売るために社長は本屋を始めました。

15坪から110坪、300坪へ

1959年、31歳で独立して7年間商売を続けた後、25坪に増床しました。何がきっかけだったかといいますと、当時奥さま会というのがあって、その会合 か何かの時にコンサルタントの先生から「住むところや庭をつぶして全部お店にしなさい。住むところは2階でいいじゃないか」と言われ、なるほどと思ってそ の通りに住むところを2階にあげ、15坪から25坪に増床したわけです。それから3年後には鉄筋コンクリートに建て替え50坪にしました。更に6年後には 移転し、110坪に増築しました。

これは杁中東店という名前で、これまでの店と平行して商売をしました。これまでの50坪の店は一般書店とし、110坪の店は専門書店としました。この110坪の店の方で、社長が以前から売りたいと思っていた、50坪では置けなかった専門書をいっぱい売ったわけです。

まだ安保闘争の名残りがある時期で、社会主義関係の本が爆発的に売れたのです。東大出版会の本を1銘柄でなんと5000冊以上も売ったということを、よく 社長が自慢していました。その時の出版社別のスリップ集計ランキングで東大出版会がなんと1位だったのです。そのくらい専門書をたくさん売る店でした。こ れがうちのドル箱でした。初年度の1日坪売上が3800円、翌年度5500円、そして8000円、10000円となり、4年目の半ばには300坪に建て替 えました。

出版社さんの協力

ここのところは強調してくれと社長に言われましたが、この300坪にした時は特にお金に余裕があったわけではなかったのです。ではどうして300坪の書店ができたのかといいますと、ひとえに版元さんに協力して頂いたからです。

特に人文系の版元さんでした。店は10月の開店だったのですが、支払いは翌年の6月、つまり新学期が終わってからでいいということで、平積商品にいたるまですべて延勘で出して頂きました。当然、棚商品も常備にして頂きました。

こうして、商品に関してはほとんど資金を使わず、300坪のお店を開店することができました。その当時お世話になった方、今は引退された方もいらっしゃい ますが、お名前がここにたくさん書いてあります。その方々には今も必ず「お中元、お歳暮は欠かすな」と社長から言われております。

出店開始

本店が300坪になってから600坪になるまでに13年間かかりました。しかし、その間に支店を展開しました。
勝川店という第1号店が昭和47年、それから刈谷店、東郷店と出店し、店舗展開を積極的に、意識的にするようになったのは1982年くらいからです。小 牧、多治見、可児、美濃加茂、関、瑞浪、中津川、御嵩、若林、一宮と岐阜県東濃地区及び三河・尾張地区というところに積極的に店舗展開をすることになりま した。なぜそれが可能であったかというと、本店が売れたからです。その他の店は初年度から黒字が出るようなことはありませんでした。

目指すのは文教堂

出店した店の1年目、2年目、3年目の赤字はすべて本店が面倒をみていました。そのくらい儲けることができる商売を、私どもは本店でやっていたわけです。 今は35店、元社員が独立したFC7店を含めて約5000坪あります。なお、出店に関しては、開店予定が入っているものも数店あって、できたら早く、1年 あたり2桁の出店ができるような体制を作りたいと思っています。

そういう意味で私どもが目指しているのは文教堂さんです。私が個人的に1番尊敬しているのは文教堂の社長です。よくあれだけの出店ができる、すごい、と思 います。ただし、品揃えの面で1番まっとうな本屋をやっているのは、有隣堂さんだと思っています。やはり誰が見ても負けると思います。有隣堂さんに行くた びに「あぁ、こういう店が作れたらいいな」と思います。ただ、残念ながら出店努力が足りないという意味で、私どもが企業として目指すものは文教堂さんです。

失敗はたくさんあった

さて、非常に簡単に私どもの発展のアウトラインをお話させていただきました。

振り返ってみて私が深く経営に参加するようになったのは、ここ10年くらいのことです。家族経営でしたから、小さい時から、店番や返品、補充発注などもや らされたわけです、生活の一部として。当然、閉店してからは返品です。昔は家族全員でやったものです。小さい頃は縄が嫌でした、手が痛くて。

そして、出店のたびに家族中が殺気立つのです。最初の頃は失敗すればアウトですから、当然、そのたびに親父もお袋もケンカをしているのです。こじんまりとした15坪の本屋時代からですが、そういう光景を間近で見てきました。

三洋堂書店が、ある程度、書店業界で成功したと言われる秘訣は何だったのか。社長及び専務は、実は特別、成功したとは思っていないのです。かなり失敗して いる。本当にすべて成功していれば、今頃は5千坪ではなくて5万坪になっていてもおかしくはない。それくらい本屋は儲けることができる商売だと思っている のですが、いろいろな失敗をしながらまだ倒産もせず、それなりになんとかやってこれた根本的なポイントはどこにあったのか、次にお話させていただきます。

3.これまでの成功要因

しっかりした役割分担

まず、経営が複数でなされていた。これが決定的なところです。つまり社長と専務が、私の父と母がどちらかが圧倒的に強いという立場ではなかったということ です。社長が営業面、いわば攻め、専務が財務、経理、人事といういわば守り。この二つの非常に違う業務は、やはり1人の人間でやるべきではない。1人の人 間では気分のよい時や乗った時には攻めますが、乗らない時は攻めないというように、感情の起伏によって会社の動きが左右されてしまうからです。父、母の2 人の場合は役割分担が非常にしっかりしていた。この役割分担がはっきりしていたという点が、伸びた最大の秘訣だと思います。

やりたいことがあるから苦労して会社をやる

もう1つは、そもそも社長にやりたいことがあったということです。これはもっと根本的な部分かもしれません。

皆さんの中には経営者の方は少ないようですが、そもそも、会社とは何かやりたいことがあるからこそあるのです。
通常、社長がやりたいことがあるからその会社をやっているわけです。

利益を出すとか成長するとかいうのは単なる手段です。何かやりたいことがある。それをやるために、大きくなった方が便利だから大きくするのです。本を売ることでやりたいことができるから、本を売るのです。

目的を達成するためなら、文具を売った方がいいとか、雑貨を売った方がいいとか簡単に変えられるわけです。とにかく本屋をやるということは単なる手段なのです。本屋をやることが目標ではないのです。

理念は建前だとよく言われますが、実際に会社を起こした人間、会社のトップというのは、理念というものを建前ではなく、本音として持っているのです。そうでなければしんどい経営などやってはおれません、バカバカしくて。

今は何をやっても食べていけます。戦後すぐというわけではないのですから。皆さんでも家族を食べさせていくことくらいならなんとかなります。しかし、やりたいことがあるから経営してるのです。そしてやりたいことは個人で違う。それは人生観そのものだと思います。

八路軍との出会い

では社長の場合はどうだったか。社長は敗戦後しばらく中国に残っていました。中国ではそれまで関東軍が悪辣なことをしていたので、それを見て「軍隊とはこ んなものか」と思っていたそうです。ところが、その後に来た毛沢東の八路軍には「おっ、軍隊でもこういうことができるんだ」と思えるほど、しっかりとした 規律があった。しかも、人民軍と言われていただけあって、人民のためにということを行動で示していた。略奪のようなことはしない。食べるものが欲しければ きちんと働いた。そういうふうに規律がしっかりとしていた。

その時に社長は「これは思想がしっかりとしているからだ。共産主義というのはひょっとしたらすばらしいのではないか」と思ったわけです。まだ10代か20代の前半です。

社会を変えたい

日本が敗戦し、軍国主義はなくなった。これから日本は共産主義にならなくてはいけないと社長は思った。つまり日本を共産主義にするために、戦時中には売っていなかった、そういう関係の本を広めるために本屋をやったのです。社長もそれらの本を読んだのは戦後でした。

勿論、本屋をやるという目的は食べるためということもあったでしょう。戦後で食べるものがなかった時代ですから。しかし、どうせ日本がこれから変わってい くのなら、今までみんな知らなかった共産主義の本を売って、それを読んでもらい、社会をよい方向に変えていこうと思ったそうです。まだ20代前半の血気盛んなころです。

理念的な部分がない創業というのは、私が思うに、無いのではないか。やはり創業したころは何かやりたいことがあるから、苦労してでもやろうという気になる のです。今でも社長が共産主義はすばらしいと言っているわけではありませんが、理念的な部分は、私は私で持っています。社長とは少し違いますが、似たようなものです。

判断基準は理念

なぜ私が副社長を、後継者をしているのかといいますと、それは社長から理念を引き継いでいるからです。最終的な目標が非常に近いから、代表権をもらってやっているのです。

理念的な部分があるからこそ、何をやるべきで、何はやるべきではないという判断ができるわけです。思いつきでやった方がいいのではないかと思えることは、 いっぱいありますが、そうした中で、本当に重大なことは何なのか、という判断基準がはっきりしているということです。

店が小さい頃から文章で書いていたわけではないのですが、社長は社長なりに確固たる判断基準を持っていたということです。理念は簡単に変わるものではありません。

何をやるべきか。私どもとしては理念を大切にするために、たくさんの本を売りたいわけです。カタチは変わるかも知れませんが、いわゆる本です。その本が果たす機能というものを、人々の身近なところで提供し続けていきたいわけです。

継続して発展するためには

杁中で成功した。だから杁中の近くの皆さん方だけではなく、もっとたくさんの人々に同じようなサービスを提供していきたい。そう思うからこそ出店するのです。たくさん出店していくために、いろいろなことを改善していくのです。

その場合に、判断基準がしっかりしていないとどういうことが起きるかというと、長期的に安定した経営戦略がとれなくなることになります。本当に何をすべきなのか、という部分で考え方が変わってしまうと、継続して発展していくことができなくなってしまいます。

それに、私どもでもそうですけれども、それなりの規模になると周りからおだてられるということがあります。そういう時に利権的なこともついてくるのです。 社長がよく言います。利権は得た瞬間から人を堕落させる。利権を得ない、利権に対する誘惑を断ち切るためにも、そもそも自分はなんのためにこれをやってい るのだ、ということを常に考えていなくてはいけないと。

物事の本質を見つけるには

私どもではこれを「そもそも論」と言います。社長がよく社員に言うことです。そもそも何をもってお客様のためになるというのか。そもそもお客様というのは 誰を対象としているのか。枕詞として「そもそも」いう言葉をつけてみると、本質的な部分が見えてくる。本質的な部分というのは日常業務の中では見えない。 離れて考えることでしか見えてこない。

たとえば「お客様の意見を聞く」というのは、お客様がおっしゃられた言葉を聞くのではない。それは「お客様が何を買われるのか」を見ることなのだ。お客様 に支持されるお店とはどういうことをいうのか。そもそもお客様に支持されるということはどういうことなのか。それは、そのお店を利用されるお客様の数が増 えることである。つまり客数が増えるということで、売上ではないということです。お店の支持のバロメーターは客数であって売上ではない。

「そもそも」という言葉をつけて、本質的に何が重要なのかと考える。これがわが社の社風です。新入生にはあまり言いませんが、店長会議では「そもそも」という枕詞は頻繁に聞きます。根本的な部分を突き詰めて考えるということは、とても重要なことです。

たとえば社長と専務のように、片方は攻めていきたい、もう片方は守っていきたいという場合、専務はよく言います。「出店しなければ、死ぬまで結構、楽に暮 らせるじゃない。全部、店を売払ったって、社員に全部、退職金を払ったってそれなりにお金が残せるわ。100億くらい現金で入るじゃない。なんでそんなリ スクをおかしてまで出店していかなくちゃいけないの」と。すると社長は「そもそもまさ子、私達が今までやりたかったことは何なんだ」と言い出すのです。

基本となるベースをしっかりとする、理念をしっかりとするということはそういうことなのです。それがなければ会社というのは継続的に1つの方針でやっていけない。そして成功の判断基準というのは、その理念にいかに近づいたのかという部分で判断されるのです。

同じ立地でそのままやり続けることは怠慢

あとはテクニカルな部分です。テクニカルな部分というのはその都度変わります。経営戦略という方もいますし、戦術という方もいるでしょう。単語がどうであれその都度変わるものです。

その代表的なものが立地です。立地と規模は変わるべきものです。先ほどお話したように、本店でも3年とか6年、最長でも13年で変わっているわけです。15坪から25坪、25坪から50坪、50坪から110坪、110坪から300坪、300坪から600坪と。

当たり前の話ですけれども、大きくなっているのです。小さくなっているわけではありません。そして、それとともに店も移転しているのです。場所も2回移っています。

経験的に言うと、15年間同じ立地で、若干の増床をしたところで同じような規模で、本屋もしくは同じような商売をやり続けることは怠慢です。大きくする、 もしくは移転する、よりよい立地に移る。そういう努力をしないのは、それだけで消えてなくなる理由となる。立地は変わるのです。

経営限界が規模を規定する

適正規模も変わります。これは必ず大きくなります。昔110坪の杁中東店ができた時は、大きいと思いました。野球ができるくらい大きいと思いました。それがよもや600坪になるとは思いもしませんでした。

昭和40年代後半、適正規模といういうのは70坪くらいだと、私どもは思っておりました。この適正規模というのは商圏と密接に関係します。私どもが想定し ている商圏というのは3万人から5万人です。つまり10万人の町があれば2店から3店作るということです。50万人の町があれば、6万人で割れば10店、 3万人で割れば17店くらいです。それくらい作っているということです。

3万人程度の町で何坪の店ができるのか、私は適正規模があると思っていました。90坪が標準となった時、90坪の本屋というのはまともな本屋だと思っておりました。今は150坪でそう思っています。

しかし、私は思うのです。大きければ大きいほど、お客様にとってはいいのではないかと。近くにあれば近くにあるほど便利がいいのではないか。つまり商圏は 小さければ小さいほど、お客様にとっていいに決まっているのです。店の大きさは大きければ大きいほどいいに決まっているのです。つまりそれは、適正規模と いうのではなく、その企業における経営限界だと思うのです。